情緒ってなんだろう


なんだなんだ、最高気温が18℃だって。クーラーからいきなり暖房に切り替えての出勤となった。11月の気温らしいが、台風も来てるって話だから、季節がどうなっているのか最近はようわからん。
秋で思い出すのが、瀬戸内海に浮かぶ犬島と尾道での撮影である。尾道では大林監督に偶然会ったが、その大林監督の「時をかける少女」のロケ地としても有名になった「タイル小路」が「タイル小路跡」になったそうな。一観光客としては淋しい思いである。
まなちゃんと訪れた時はそれほど人も少なく撮影も普通にできて、こじんまりしたいい感じの場所であった。細い坂道の路地の奥にあったが、周囲を壁に囲まれていながら、陽だまりが心地いい所で、二人きりでの撮影にはとてもいい空気感をもたらしてくれた記憶がある。

そんな風に、いい感じの場所は知らず知らずのうちに無くなってしまうことがある。私の好きなロケ地の一つであるローカル線などは、気がつけば廃線になっていたなんてことがある。しばらくは線路が残ったりするが、電車が列車が走らなくなると、すぐに錆付いてしまうのがレールである。常に車輪との摩擦でツルツルに光った2本のレールがいいのである。また、廃線になって生活感が失われてしまうと、それが写真に出てくるので、現役の鉄道で撮った写真とは違った方向性となってしまう。

自然が残っていたと思って訪れると、宅地予定地になっていて、新品の電柱が立ち並んでいるなんてことも最近は増えてきた。普段は気にもしない電柱でも、撮影する時にフレーム内に進入してくることが多いものだ。その1本のために台無しになることも少なくないわけだ。
ポストだって、昭和の匂いを漂わせる丸っこいものは、見つけることがかなり困難になってきた。郵政民営化でその動きは加速されていくのだろう。確かに使い辛いポストではあるが、グッドデザイン賞をあげたいほど和ませてくれるとは思わないか。最近の機能性だけしか考えていないものは実につまらん。

同じ人工物でも、写真にそれが写り込むだけで、雰囲気をガラッと変えてくれる脇役はあるものだ。
この時期だと、稲穂を守るために表と裏が金と銀のテープを張り巡らせた田んぼをよく目にする。それに引きかえ、案山子はなかなか見つけられない。案山子なら思わず撮りたくなるが、キラキラのテープは、その連なった輝きを大口径の望遠で点光源としてボケに使うぐらいであろう。
他には・・・ なんでもかんでもLEDが大流行で、電球がどんどん減っている。
信号機もそうだし、これからの季節は夜のイルミネーションもほとんどがLEDになるだろう。省エネにもなるいい事だらけのLEDであるが、裸電球の暖かさには、どう転んでも敵わない。
街灯だって、アルミの傘をかぶった電球なんて、昭和の時代に絶滅したと思っているが、田舎に行けば取り残されたように軒下に残っていたりするのである。そんなのを見ると、構図に少々無理が生じてもフレーミングしてしまう私である。
六甲山系の市章山と錨山をご存知だろうか、逆夜景とも言えるライトアップだが、三ノ宮とかの平地から六甲を見上げると神戸市の市章とイカリを象った温かみのあるオレンジ色の灯りのことだ。その近くで回っている風車が起こす電力で光っていると聞いたことがあるが、あれもLEDになってたりするのだろうか。

ノスタルジックを感じるものが好きなだけかもしれないが、以前ローカル線の駅をたどっていた時のことである。頭上で何か羽ばたく気配を感じて見上げたところ、駅舎の梁にツバメの巣があったのだ。その時に、一瞬にして子供の頃の夏休みのワンシーンを思い出していた。今となっては手を伸ばせば届きそうなツバメの巣であるが、この駅を利用する人たちにとって悪戯の対象ではないのである。都会であれば、とっくに心無い行為の餌食になっていたことだろう。
世の中どんどん進歩しているが、情緒ってものが犠牲になっているのは間違いのないこと。その情緒って何を持って定義されるのか分からないが、ひとそれぞれに物差しがあって、世代が変れば変化するものなのだろうか?


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