無邪気さと経験


モデルだってプロとしてやっているからといって、いい被写体であり得るとは限らないと思うのである。言葉は悪いが専門バカに成り下がっていると思うことも時としてあるのだ。そんな時は、普通の女の子のナチュラルさがとても恋しくなる。完璧な笑顔やポージングより、魅力的なものもあるのだ。
カメラマンだって同じで、写真技術者にはなりたくないものだ。もっと開かれた心を持ちたいと思うわけで、それは言い換えれば子供のような無邪気さや柔軟性とも言える。まなちゃんは私の撮った写真を見て、「私ってこんな顔するんだ・・・」って言う事が多く、それも撮影の楽しみにしていてくれる。それは自分の計算した表情だけの範疇に収まっていないからなのだろう。

私はモデルに仕事をさせたがらないカメラマンかもしれない。モデルがレッスンや日々の努力で築き上げた部分を嫌っているわけではないが、思いもしなかったことへの反射的な反応や、力の抜けたふとした時の表情に強く惹かれるからである。そして、それを求めてアクションを起こすことも多いし、隙なくファインダーで追うこともある。
しかし、それはプロのモデルと撮影する場合としては、常識はずれでナンセンスなことで、まだまだ何も分かっちゃいない甘チャンだと、先輩諸氏には思われることだろう。しかし、それぐらいの事はちゃんと分かった上で、実行しているのである。

カメラマンとモデルは二人三脚で作品を創りだすわけだが、縛った二人の内側の足のリズムがピッタリ合うのだけで喜んでいてはいけない。自由になっている方の足をどう使うかで広がりが出たり、ちぐはぐになったりするのである。

「女は女に生まれつくのではなく、女になっていく」と言われるが、まぁ、それも一理ある。女としてのいい経験が写真の端々に現れてくるのは私も認めるところである。しかし、男の赤ちゃんはたんなる赤ちゃんであって、女の子は産声を上げたときかられっきとした女以外の何ものでもないとも思うのである。
「鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番美しいのはだぁれ?」これは白雪姫の敵役である王妃の有名な台詞である。しかし、鏡の中の自分に向かって問いかけたところで、たかが知れてる。そんなことでは美しさに磨きがかかることはない。閉じこもるのではなく、もっと外に向かって欲しいのだ。それが出来るモデルは、何て素敵で恵まれているんだろう。多くの人の目に触れ、時にはキレイだと言ってもらえるのだ。それが、生まれもった女としての部分をさらに開花させ輝かせるのである。
そうは言うものの、カメラマンだって多くの経験を重ねる事で、感じるものが変化し、何かが見えてくるものであると信じているのである。いまと同じ技術と機材があったとしても、20年前の私には撮れなかったものが、感じられ撮れている気がする。
恋愛には二通りしかない。「最後は男が女を失うか、女が男を失うか」のどちらかなのである。
その時は大変な渦中にいて、そのそれぞれの立場で感情とともに見せる表情は変化するだろう。そして、それが知らず知らずのうちに、経験となり撮影の肥やしになっているようである。
誘うのが男の役目、それに応じるのが女の役目であった時代は過ぎ去ったわけだが、いつまでも、カメラマンのためにニッコリ笑うだけのモデルには心動かされなくなってきた。


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