撮影は一人でするもんじゃない


私は数人で騒いでいる女どもが大嫌いだ。それは大阪のオバハンのことではなく、若い女の子達に対しての方がその思いはよっぽど強い。って言うかオバハンは諦めているといった方がいいかもしれないが、声のトーンが低いだけまだ許せるのだ。それにしてもなんであいつらは甲高い大声で笑いながら耳が痛くなるような音を立てて手を叩くんだ?あれを近くでやられると頭がクラクラする。喫煙だけを目の敵にしないであいつらのバカ笑いも逆セクハラ容疑でも何でもいいからどうにかして欲しいものである。
女子高の教師なんか楽しそうでいいなーなんて思ったりした時期もあったが、とんでもない地獄を見そうだ。

最近、男の方が素直だとつくづく思うののだ。それはずっと昔から解っていたことだが、ますますその定義は間違っていなかったと思ってしまう。私はどちらかと言えば、女性陣に私は余り好かれていないことが多いのだ。と言ってももちろん奴らはモデルとかではない。私は基本的にレディーファーストだし大事な女性には優しい。しかし、そんな価値もない奴にまで無理にチヤホヤしてあげれるほど八方美人ではないし心も広くない。
女性と仲良くいい関係が出来ていなければどうにもならないポートレートの世界に身を置く私であるが、普段は女性に対して男性より気を使うことが一般男性に比べて少ないようで、増してや良く見せよう、いい人に見られようなんて思わない。
感心が無いから、セクハラもどきの発言もない代わり、女性だから男性に比べて穏やかに接するつもりもまったく無く、遠慮もしない。大事に扱われて当然と思っている女性が多くてどうしようもない。
断っておくが、私は男性の部下や後輩、目下の相手に対して呼び捨てにしたことは無いのだ。偉そうにしてどうなる?って思ってしまうのである。子供の頃からどうしても体力的に上位に立ってしまうので、威圧したくないという思いがいつのまにか身についてしまったのかもしれない。

私は対人関係について、意識して自分の言動をコントロールしたりしない。だから、これまでここで色々と書いてきたことも、自分は努力してモデルとの関係をこうやって築いていると書き続けているのでないのだ。ただ、思い返してみて、こうだったなというだけなのである。
こんな男だから、それでいいとモデルが感じてくれれば上手く行くが、逆の目が出ることもあるだろう。これまで、媚びて媚びて媚びまくってご機嫌を取ってまで撮影したいと思ったことが無いからこんなことが言えるのかもしれないが、まなちゃんがすんなりと私を受け入れてくれなかったら、私もこんなことを偉そうに書いていなかったかもしれない。だが、元々異性のことなんかすべて解るはずも無く、女の色仕掛けと違って媚びようったってどうすりゃいいのか思いつかない。

これは撮影の相手に限ったことではない。「これから改めるから機嫌直してくれよ」なんてことはプライベートでも言った記憶は無い。そんなものは、そう簡単に性格なんて変えられないのを解って言う方がどうかしてる。だからと言って、怒鳴ったり威張ったり、暴力なんてとんでもない話である。この拳の骨が変形しタコが出来たゲンコツが飛べばどうなるかって考えただけでもぞっとするが、そんなことではなく解決の糸口にもならないからである。
モデルに右向け左向け、笑え睨めと自分の思うがままに指示するのが嫌いなのも、それがいい写真・・・というか私の好きな写真に繋がるとは思っていないからであると同時に、私の対人関係に由来するものであろう。

5人も10人もにモテたいと思うわけじゃなく、本当に大切な相手だけを大事に出来ればそれで良いわけで、それが表面に出てくる撮影と通り一片の撮影とは自ずと種類が違って当然である。
撮影は、ハード面での写真知識とモデルとのコミュニケーションは当然のこと撮影地の選択やシチュエーションの決定などのソフト面の両立が必要で、そのどちらが欠けても成功はしない。
それは風景写真でも同じで、良い被写体に出会える自然に対する知識や経験は重要な要素であるが、写真専門学校でカバーできることではない。まなちゃんに聞いて初めて知ったが、看護学校では注射の実技は教えないらしく、実務で覚えるしかないらしい。
知識が無ければ始まらないが、それ以上に大事なことは、対モデルと上手くやっていけなければポートレートはできない。
やっと表題のテーマになってきたが、「撮影会から個人撮影へ」これは本当の意味で「撮影は一人でするもんじゃない」を実感する時である。しかし、これは目に見えるようなシロモノではないから、日々奥の深さを実感しながらの撮影になるはずである。
すんなり移行できたように思えた人も安心するなかれ、そう易々と出来たと早合点させてたまるかってとこだ。


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