経験からのリアリティー


ポートレートの面白さは、カメラマンとモデルの感情、そしてシチュエーションなどのブレンドの仕方にかかっているのかもしれない。どんなに感情の分量や移入が多くても、そのブレンドの仕方がまずいと重く苦みのあるものになる可能性を秘めているだろうし、逆だと水っぽく味気のないものになってしまいそうだ。そんな中でブレンドが絶妙に決まれば、ほんのちいさな要素で最高の味わいを醸し出せそうである。
感情以外の要素として、一言でシチュエーションと言っても、撮影場所、ファッション、ヘアメイク、季節、天候、時間帯、そして写真ならではのレンズやフィルムなどの機材を含めた物理的な状況などがあるが、やっぱり重要なのが、私が何を感じてそのシチュエーションを設定したかと、モデルがどれだけその私の考えと共通の想いを持ってくれたか、そしてモデル自身の気持ちの置き所である。

SFではないのだから、ブレンドによる旨味の決め手はひとつしかない。もちろんそれはリアリティーである。当然のことながら、ポートレートはフィクションの世界であるから、そこに写っている状況が絵画ではなく写真であってもすべてが現実そのままであることなどありえない。どれだけ、スーパー・リアリズムを追求した写真でも、それがポートレート作品である限り、そこに表現されているものは悲しいかな非現実なのである。しかし、元を正せば現実そのものズバリであったなら、単なるカップルのスナップ写真であり、ポートレートの存在意味を失ってしまうのである。

しかし、そこに写っている非現実の写真が、見る側の実生活の中でのナマの現実と重なっていることがとても重要なのである。もちろん撮影している当事者の二人にとっても同じである。
少なくとも私は実体験から、イメージを重ね合わせたり発想のきっかけを得ているのだ。

ってことで大した恋愛経験もない人にはろくなポートレートが撮れないのかも知れないし、鑑賞も出来ないのではないだろうか。
そう、今まで私が何度もリアリティーについて語ってきたが、やっと胸の内につっかえていながら、なかなか上手く表現できなかったものがかなり吐き出せたような気がするが、いかがかな。

カメラマンの数だけ、そしてそれを見る側の数だけの定義があるはずだ。その最大公約数が本当の最高傑作になり得るのか?そんなことはあるはずがない。
誰だって好みは違って当然である。ルックス的なことはもちろん、仕草や話し方、そして表面的に見え隠れする性格的なもの。それらをすべて網羅する事など不可能だし、その気もぜんぜんない。モデルのまなちゃんが媚びを売るタイプじゃないのと同じで、私は見る側に媚びた撮影など一度だってしたことはない。単に私好みの女を表現しているだけのことだ。

私の好み・・・?しっとりとした大人の女性だと思われるかもしれないが、そんなのは若い頃に好奇心からちょっと寄り道はしたものの、本来は背筋をピンと伸ばし、弾むような足取りで元気にあふれ、何事にも興味を持ち、笑顔と驚きと喜びを絶やすまいとする表情の豊かな目の大きな女性が好きなのである。
そう言えば、キャッチボールもしたし、MTBで一緒に走ったりジムに通ったり、ウエットスーツを着せてダイビングなんかもしたものである。買い物や映画に行くより、山や海で遊んでしまう方を選んでしまう。そして、いつも弁当を作って喜んでついて来てくれる。
ドライブ中に見つけたコスモスをトランク一杯に摘んで帰ったこともあれば、野道に咲く花の名前を片っ端から聞いて、その場で適当な名前を即興で付けあったり、犬と、その仲良しのウサギに長い紐をつけて散歩したりと、数えたらきりがない。そして、当然のことながら遊んだ後は美味いものを食うのは当然の事だから、食い物の好みは近いに越した事がないし、料理が上手ければこの上なく幸せだ。

早い話、醒めたタイプはあまり好きでは無いのだ。男なんて単純な生き物であるから、はっきり肌で感じたいのかもしれない。
そうだなー、感覚で言えば、ロケなどでステキな場所に行った時、「今度はアイツを連れて来てやろう、アイツならこの景色を見てきっとこんな風に言いながら、向こうに走っていくはずだ」なんて私はよく想像を巡らせるのである。また、こんな事を想うのはそんな実体験があってのことで、経験がブレンドする上での大きなポイントとなっているのは言うまでもない。

そこで、意外に感じている人がいるかもしれない。「まなちゃんをクールで感情を内に秘めた女性として扱っているじゃないか」と。
確かに、まなちゃんはキャッキャと騒ぐタイプじゃないし、喜びや驚きを大袈裟に表現したり甘え上手に振舞ったりしない。しかし、それを無理に見せようとしないながらも、しっかり伝えてくれるのである。あー、こんな表現の仕方をする女性もいるのかと感じたし、それを変えて欲しいとは少しも思わないし、不満に感じたりしたことはない。

この瞬間に思い出されるのは、撮影が終わって、美味しいものを食べに行こうと決めていて、寿司屋に向かう交差点を私を追い越して早足で先に歩きながら、前を向いたまま嬉しそうにニッコリしていたのを偶然目にしたことがある。わざとらしく私にそんな表情を見せようとしていないそんな姿を、ビルの谷間から差し込む日を浴びた表情で覚えている。また、カニの刺身が美味かったからって、鍋用に用意されたカニまで生で「食べてもいい?」って聞いてきた、道頓堀の店での満足そうな顔。または、尾道で坂道を一日中散々歩き続けたあと「私、ここ好きかもー」なんてぼそっとつぶやいた、踏み切りでの撮影の直後の一言。
それらは、すべて私のご機嫌を取ろうとした結果の姿なんかではない。しかし、それ以上にもっと何かをしてあげたい気分にさせてくれたのである。


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